母とサザエさん

また日曜日だ。
今日はイラン人留学生である友人の家で日斯持ち寄りパーティーをする。パーティーと言ってもサシだけど。とても楽しみ。
 
それはともかく、ちょうど一週間前に母が変なことを言っていた。
サザエさんを一家団欒で観ていたのだが、二人そろって締めのじゃんけんに負けた時、
 
「あー、思ったのと違うのを出せばいいのか。」
 
とつぶやいた。
へ?どういう意味? ?と聞くと、どうやら昔からサザエさんじゃんけんだけ「わかる」そうな。
 
うーん、なかなか無駄な特殊能力。そして母にしては珍しい。
 
私の母はいわゆる超のつく真面目な人で、昔から私が変なことを言うとすぐにたしなめようとしてくる。
私は生まれつき音と文字に対する共感覚があり、絶対音感があり、記憶力が変な推移をして低下したことがある。頭の中は抽象度が高く、人に考えを伝えるためにはたくさん考えて言語化しなければならない。読書を趣味にしてきたのが幸いだった。
 
全くそんなつもりはないのだが、母はこれらのことを「不思議ちゃんアピール」だと思っている節があり、他人にそのような印象を与えないように家で矯めておきたいようだ。
 
…ところで、私が嫌うものに「親について文句を言うのを否定的にとらえる風潮」がある。
そもそも年上や親に敬意を払うことと彼らに対する好悪の感情は全く別のもののはずで、「生んでくれてありがとう」「育ててくれて感謝している」と「親と仲が良い」「親が好き」は違うだろうという考えである。
 
さらに、百歩譲って上記を区別しなかったとしても、人にはそれぞれの事情がある。
子供に対してほとんどコミュニケーションを取ろうとしなかった親、子供を捨てた親など、親にも理由はあるのかもしれないが、子供の気持ちを考えればそれを理解しろという方が残酷ではないだろうか。
 
私は両親に感謝はしているし、敬意も払っているつもりだ。しかし、恨みに思うところはある。それは人間なので仕方がないとあきらめたり、期待しすぎなのかと考えたりする。ただ一つ言えるのは、親に対してマイナスの感情をもっても良いのではないか、ということである。
 
去年だったか、報道番組で「親の介護」について特集が組まれていた。具体的に言えば「過去にいやな思いをさせてきた親の介護」について。
 
番組内では、過去に母親から虐待を受けていた人がその母親の介護をしていたり、認知症で暴言を吐きまくる母親を介護していたり…
ある人は「母親を殺したいと思うこともある。」と言っていた。
 
先に、親に敬意を払うことと好悪の感情は別のものだと書いた。これらの定義は別のものだと思うが、個人の心の中での在り方はそれぞれ異なるだろう。一緒になっている人もいればはっきり分かれている人もいて、十人十色で良いと思う。
 
十人十色で良い。母はいわゆる「べき論者」だ。私は幼いころから「~すべき」「~であるべき」と言われて育ってきた。とても窮屈だった。
何でも良いのだ。「こうあるべき」ではなくて考えるならば「心が豊かになるのは? 」 「楽しいのは?」「今一番望んでいることは? 」だろう。
 
親について愚痴を言ってもよいのだ。~べきという考え方は捨てよう。いや、捨てるべき、だと変わらないから捨てても捨てなくても良い!だな。
…などと、ぶつぶつ考えていた今日この頃である。
広島焼きを作らなきゃ。